1885年(明治18年)
3月16日
初代社長(創業者)渡辺宗七郎
松本市博労町に誕生
1906年(明治39年)
初代社長(創業者)渡辺宗七郎
渡米、ワシントン州シアトル市
1910年(明治43年)
8月
アラスカゴルドバ市
カッパーリバー・レイルウェイ
8000人の賄を請負う
二代目社長 渡辺聡一郎 記
初代社長、渡辺宗七郎は明治十八年三月十六日、渡辺喜平(開運堂創始者)の次男として生まれて、菓子業界に入り、兵隊検査の翌年明治三十九年三月に、大志をもって渡米を実行しました。年令は二十一才、徒手空挙の快挙でした。渡航費百二十円を、長兄豊吉の日露戦争の勲章下附金を借用しての、大切な門出でした。横浜港出発、北米航路1ヶ月の旅の心細かった事も、将来の希望のためバラ色でした。
北米の玄関口シアトルに到着、地面に足のつかない喜びでした。当時のシアトルは日本人の移民が続々と許可され、大変な景気でした。日本人町を歩き、近い将来必ず、この町に自分の店を開く決心をしたのでした。若い頃よりキリスト教を信じていましたので教会を訪ねて、今後の方針を相談しました。体に技術をつけることが第一と信じて、教会の紹介でベーカリーとコックの修行をするようになりました。五年間はほとんどの給料は使用せず、兄豊吉のもとに送金して、出発時の報恩をしたのでした。当時の事について「人は煙草を1/2ずつ吸ったが、自分は1/3に切って吸った」と自慢していました。又、作業は日中はベーカリー、夜はレストランと、二人分働いたのでした。修行は二倍の速度ででき、収入も二倍あったのでした。
修行が5年を過ぎた頃、教会の司教より一生を左右するような話を受けました。それはアラスカに行って「カッパーリバー・レイルウェイ」の従業員八千人の賄を引き受けるなら、教会が保証して推してやる、社長は司教の友人で、真面目な人を欲しがっているとの事でした。(当時アメリカ合衆国はロシアよりアラスカを五千万ドルで買い入れて、開発に乗り出していました。アラスカは、金、銀、銅当、鉱物資源、森林、水産物の宝庫であり、軍事的にも要であるので、国家の総力をあげて、開発に努力しておりました。)アラスカのゴルドバを河口として北方数百マイルのカッパーリバー(銅の川)に沿ったカッパーリバーレイルウェイは、本土より八千人の労働者を送り込み、周辺の開発と鉄道の建設を開始した大工事でありました。当時のアラスカへは帆船が多く労働者も本土を喰いつめた無頼漢の様な者が殆どでした。会社は労働者に金を渡すと殺人事件、バクチ等が労働者の労働意欲を無くす事を配慮して、アラスカを乗船する時に、給料の精算をして、ドルでも金貨でも金塊でも欲しい方で渡したのでした。働いている間は金は不必要で、一切食券、宿泊券、物資券で物を引き換える制度をとりました。そのために、食事の提供は一番大事な仕事でした。会社は本土より何人もの事業家を送り込んだのですが、皆同国人である気安さからか、丁度に仕事ができず、失敗して困り果てており、司教に社長が相談をしたのでした。Mr.White 司教は当時の若い日本人Harrey,Watanabe青年の見所ありと、保証人となって八千人の食事とベーカリーの責任者に推薦したのでした。
仕事をするには全てサインで、会社の物資を数十万ドルも自由に使用する権限を与えられました。(米人の場合は保証金五十万ドルを積む事を要求されました。)金券を任されると、三十箇所のキャンプに三百人の食事をさせる計画をたて、真面目な日本人を主としたチームを率いて、アラスカに渡りました。従来と違って食事中にベーカリーを多分に含めた仕事は、労働の生産性を30%高めたと、会社より感謝をされました。
良心的な日本人チームの成果と思われ、日本人の真価を発揮しました。その為コルドバ市より名誉市民として、リング(市の指環)を頂戴しました。三年間の契約期間を無事勤務、六十万ドルの報奨金を貰って一路シアトルに戻ってきました。時は大正三年の春のことでした。帆船の数倍の高さの波も全然気にならなかったとの事でした。
1913年(大正2年)
10月
シアトル開運堂創設

シアトル開運堂内部

初代社長(創業者)渡辺宗七郎
宗七郎はシアトル到着と共に、宿願の開店の準備に取り掛かりました。当時のシアトルは人口五十五万、太平洋岸の北の関門であり、アラスカへの出口で、物凄い繁栄の都市でした。客船も日本郵船、大阪商船、山下汽船等が最優秀船を配置し、アメリカ側のプレジデントラインを中心とした勢力と激しい競争をしていました。毎日数隻の汽船が入港し、黒煙をあげています。日本船が波止場に着く毎に、日本人移民が続々と良い条件の職場を求めて上陸してきます。若いアメリカは当時、移民をいくらでも吸収出来る力を持っていました。誠実な先輩の努力は日本人労働者の信用となり、どこでも採用されて参ります。当時の内地の収入は月額七円〜十円位の労働者が、アメリカでは景気が良く、一日二ドル以上、アラスカでは十ドルにもなりました。(一ドル=二円)収入が十倍以上になった移民の得意や想像の外でした。
このような状況で、日本菓子店を日本人相手に開業する事が最適と考えました。422 Main Street-Sea the Wash に店舗、工場、倉庫を選定出来ました。当時のシアトル港のメインゲートを五ブロック登ったメインストリートで、真正面に(Greet Nort-hern rail way)があり、景色の良い港を見下ろす高台でした。途中の、1 st Av.4 tw.Av.は一番の繁華街でした。店舗は(家主は鉄道会社)八階建の下駄ばきビルの中の中央にあり、下隣が日本人第一の宝石店、上隣が有名薬品店でした。間口は五間、奥行十間です。一、二、地階を入手します。設計は、五年間夢に見た絵を描くので、少しも疲れを感じなかったのです。二階まで吹き抜けとし、二階は回り廊下とします。地階は工場として、隣の地下を倉庫として権利を買いました。吹き抜けの中心部はシャンデリア、大理石のソーダファンテンを設置、その上に当時売り始めたコカコーラの特約店シャンデリヤを下げ、二回吹き抜け正面に特別注文して、秋山白厳先生に欅の看板に開運堂(現在のスヰトの前身でアメリカの第一号店の名称)と 揮毫して戴いたもの(本町開運堂に贈呈)を飾り、当時最新の設備をして、日本人町随一の店舗造りをしました。一ブロック上には、移民の草分けの相模屋さんがあります。十数年の信用もあり財力もある相模屋に対し、日本人の評判は若い宗七郎が何時まで競争できるかは時間の問題、と見ていました。友人知己は、日本菓子では無理と思うから他の商売を勧める者も多かったのでした。
さて開店です、宗七郎は若い想像力と得意の日本菓子をもって、新企画をどんどんたて決戦を挑みました。立派なロケーションに最高の金を掛けた店を造り、最高の技術をもった品の良いサービスで提供するという原則は、今でも通用します。その原則を実行したのでした。引菓子等も、日本と全く同じ品を手を抜かず提供しました。アメリカ流日本菓子のごまかしは一切しません。従来の実績の上にあぐらをかいていたら結果は明確です。追打ちを掛けます。日本から輸入していた鉄砲玉その田の乾菓子等も自家製造して、新しいものを売り出します。一番の圧巻は、年末年始の賃餅した。当時の餅つきは、全部手でついていました。十二月になりますと注文がどんどん入って来ます。相模屋さんは、二十数人のSaw mill の労働者の若手を用意して大気しています。開運堂は普段の人員で増員せず、賃餅の注文をどんどん取っています。ところが、宗七郎は秘密兵器を持っていました。「餅つき機」を自分で考案して準備してあったのでした。餅つき機二台の威力は、二十数人の労働力の生産を上回り、量、質共に最良のものを提供できたのです。このことは一挙に開運堂の声価を高めたのでした。
シアトルのポーランド周辺の日本人が、生活の糧として休日には故郷の味開運堂の菓子を買って又厳しい労働の世界へ戻って行きました。宗七郎は生きがいを感じて努力します。店舗は一層繁栄をしました。当時は対日感情も最良で、日本人の自由渡航も認められ、在米者は写真結婚で日本より妻を呼び寄せることが出来ました。(当時、十年以上前に写した写真で見合をして、話が違うと問題になり失敗した例など、数多くあります)働いて家を持ち、妻帯して子供が生まれる。生活も収入は日本の十倍以上で食料品は逆に安く、余裕が出てきます。望郷の念を故郷の菓子で慰める結果として、日本菓子が飛ぶ様に売れました。砂糖・水飴・小麦粉・小豆等が日本より安く入手でき、売価はドル価格ですので、大変な収益となりました。
尚一層高価な技術を要する様になって、内地より職人を呼び寄せる事になりますが、これは失敗でした。その頃、段々と手続きが面倒になってきた移民局に手続きをして入国をさせますと、暫くして全然働かなくなって、酒と博打で過ごすようになります。原因は余りにも周囲の景気がよく、(雇主に解雇させれば)自由に収入が得られると教唆する者が居ったのでした。若い日本二世に、本格的に仕事を教える自家養成の職人が最高と納得することになります。
工場長の出来るものも出来、スタッフも揃ってきます。経営の基礎も固まってきたときに、親友の紺谷氏(神戸高商出身)が、開運堂の支配人に就任します。経理マンで三井物産社員としてシアトルに駐在していた優秀な人でした。支配人に仕事は任される様になり、宗七郎は事業の今後について考える時間が持てるようになります。親身の相談相手を得て、初めて男子として一生の仕事に取り掛かることになります。当時、日本人中の成功者として自他共に許すようになっていました。
1914年(大正3年)
3月
シアトル日本商業銀行を設立
一九一三年頃、アメリカで一番確実な事業は、不動産を所有運用することでした。借家人は家賃が遅れただけで、家主がPoliceを呼びますと、荷物を職権で外に放り出してくれます。居住権とか人権は一切認められません。宗七郎は不動産を所有する事によって、事業の多角化を考えます。良い土地も格安で売りに出ています。
Jackson Street end 12 Av.の角地を十エーカー買い入れます。東洋人相手の五階建ての下駄履ビルを建築、一階を貸店舗(マーケット)二階を事務所、三階以上をアパートメントにする計画です。農場の経営、ホテルの経営も計画します。資金に余裕がありますと夢が生じます。その時在留邦人の間で懸案の日本銀行が議題になり、宗七郎は之が日本人としての最高の仕事と信ずることとなります。当時の米国銀行は日本人の預金は受けますが、貸出しは殆んどしません。日本人同士で頼母子講(無尽会)をたて資金を融通しあっていました。宗七郎は在留邦人の成功者と煽てられ、銀行設立の発起人となります。準備した資金を全額投入して社長となり、支配権を握ります。
一、 名称 Japanese Commercial Bank of Seattle
二、 資本金 250万ドル
三、 設立 1914年3月
四、 222 Second Avenue South
紺谷氏の進言で運営は一切有能な専門家に委任する、社長は絶対の支配権をもつ、全株式を何時でも引き渡して退任する覚悟をする事を要請されました。宗七郎三十四歳でした。
銀行が設立されますと、信じられない速度で預金が増して来ます。六ヶ月の目標が僅か数週間で完了しました。日本人が米国銀行より払い戻して日本人の銀行に預金を持って来たのでした。貸し出しも良い条件でどんどん成立します。
会社が盛況になりますと、宗七郎が過半数を持つ事に非難が集中して来ます。銀行事業は責任の所在を明確にする為に、紺谷氏はAll or Nothing を完遂する事を、当初より強く進言したのでした。事業は有能な専門家の運営で益々好調です。預金も貸し出しも予定の数倍となりました。日本人の企業の殆んどが顧客となり、遠くPoatland よりも取引を希望されるようになりました。毎日のように日本企業の投資した事業所が完成し、お祝いが続きます。(開運堂の菓子も売れます)宗七郎の最良の年でした。
セルビアの一青年の銃声は第一次世界大戦となり、物価は暴騰します。何でも数倍で羽が生えたように売れます。シアトルのPUGETSOUND湾は鮭の宝庫です。つかみ取りの出来るくらいの漁獲がありますが、缶詰の一ケース四十八本の原価が二ドル五十セント位ですが五十ドルでヨーロッパに飛ぶように売れます。品物はいくらあっても不足です。新規参入の日本企業もどんどん利益を上げます。銀行も同様です。物不足を見越して売り惜しみをするものもあります。各事業家より真に感謝されたのは銀行でした。戦争の早期の終結を夢にも知らず、有頂天の時が過ぎました。
銀行の利益は莫大となり、重役人より宗七郎の持株の分割と利益の配分を要求されます。専門家の支配人と紺谷氏の意見は、八十五%以上の貸し出しをしているので、内部保留を厚くして、預金者にいかなる場合も損害をかけない様にする、当面、株の分割も配当もしない、ということでした。強引な紺谷氏に対する攻撃は遂に嫌気をもたせることになり、宗七郎も全株式を売り渡して、退任の決意をします。紺谷氏を社長代行として、安心出来る後継者に引き渡す努力をします。
此の様なとき、独逸の降伏によって世界は沸騰します。続いて一大不況が訪れ、パニックに陥ります。物の価格は一転、只同然となります。不景気、失業者、倒産の続出です。五十ドルで飛ぶ様に売れた鮭の缶詰が、五十セントでも買い手のない時代となりました。百分の一です。日本でも有名な、第十五銀行の取付があった頃です。シアトルの日本商業銀行も取付騒ぎとなります。支配人、紺谷氏の頑固さが、貸借のバランスを何とか保った事、内部保留もかなりあった事等や、重役の個人資産の提供で、何とか預金者に損害をかけずに済みました。宗七郎は高価な勉強をしたのでした。聡一郎には社訓六則を示すことになります。数人の重役と紺谷氏、宗七郎が最終の整理を裸になってすることになります。利益によって集った者は、利によって離れます。法的には退任して居ったのですが、宗七郎は全資産の提供をして、紺谷氏に整理を委任します。全部整理完了まで約二年を要します。紺谷氏の忠告が骨身にこたえて判ることになります。
1924年(大正13年)
1月
シアトル開運堂を
支配人紺谷氏に贈呈
宗七郎帰国
社訓六則 創業者 渡辺宗七郎
一、 得意の時が一番危険である。自重し、煽てる人を近づけない。
二、 知識のない事業に手を出さない。一業に徹する。
三、 賭け事・勝負事は下手になれ。近寄らない様心掛ける。
四、 取掛かるとき、心に引退する準備を持て。
五、 最後まで責任を果す、又権利も追求する。
六、 金銭の保証、貸借は個人間では一切しない。贈呈するようにする。
高価な体験の結果、後進に信ずる処を示して社訓とします。
戦後の不況と共に、排日運動が激化、日本に帰国を考える時期になってきたとき、大正十二年九月一日の大震災がおこり、宗七郎も真剣に帰国の計画をたてます。功労者の紺谷氏に、シアトル開運堂を贈呈して、日本でベーカリーを経営することになります。商号もKAIUN SWEET Co とする事も決定します。
1924年(大正13年)
7月
縄手に開運スヰト開店

縄手通り開運スヰト
大正十二年、関東大震災によって、従来の実績は形の上ではゼロになりました。宗七郎は早速母国の見舞いに戻り、このときに帰国してスタートラインに並ぶことは天の与えと考えました。ゼロより出発では、誰にも負けない自信を持っています。早速シアトルの一流店より、ウィルヘルムメーラーをスカウトします。(メーラーは、ジャーマンベーカリーの社長として同業の第一人者となりました)当時二十四歳で、ドイツ本国でベーカリーを修得し、アメリカに就職して三年後で、技術は優秀でした。本人が宗七郎の人柄に共感して、アメリカの給料の五十パーセント増で契約したのでした。設備の準備も進めます。当時アメリカにもあまりないRainier Electric Oven, Gas Oven, Read Cake Mixer, Automatic Doanut Machine, Ice Cream Homognizer, Refrigerator Machine等を購入、開店準備をします。開運堂シアトル店を紺谷氏にゆだね、最終的な打ち合わせに日本に戻り、松本市縄手七七に「開運スヰト」を開店することになります。大正十三年七月二十五日の事です。松本中の注目を集めて、開店には開運堂の皆様の参加を戴いて・・・。
二年目にメーラーを応援して、銀座裏にジャーマンベーカリーを開店させます。
